ラモス瑠偉(らもするい)
氏名 | ラモス 瑠偉(らもす るい) |
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ジャンル | スポーツ サッカー 経験・体験談 人生 |
現職 | ビーチサッカー日本代表監督/サッカー元日本代表 |
経歴 | プロサッカー選手、監督。2月9日、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ生まれ。18歳でサージFC(ブラジル)とプロ契約を結ぶ。1977年(昭和52)に来日、読売クラブ(後ヴェルディ川崎、現東京ヴェルディ)に入団。読売、ヴェルディ川崎時代を通してゲーム・メーカーとしてチームを引っ張った。日本リーグ、Jリーグ通算で7回の優勝を飾ったのをはじめ、獲得したタイトルは16にものぼる。日本リーグ時代には得点王、アシスト王にも輝いた。1989年(平成1)に日本に帰化、90年には代表選手に選出された(国際Aマッチ出場32試合、1得点)。1996年に京都パープルサンガ(現京都サンガFC)に移籍。翌1997年にはふたたびヴェルディ川崎に復帰し、98年シーズンを最後に現役を引退した。2005年ビーチサッカーの日本代表監督を務めたのち、柏レイソルのコーチに就任。2006 - 07年東京ヴェルディ1969(現東京ヴェルディ)の監督となり、08年より同エグゼクティブディレクターを務める。ブラジル仕込みのテクニックと軽快なボールさばき、相手の急所をつくスルーパスが持ち味であった。1980年代から90年代なかばにかけて日本サッカーシーンの中心にいたといってよい。来日6試合目で自身のラフプレーにより1年間の出場停止処分を受けたり、1981年には左足複雑骨折で再起が危ぶまれるなど、選手生命の危機に瀕(ひん)したこともあった。日本人との結婚を機に日本に帰化した後は、日本代表選手としても活躍、第2回ダイナスティカップ、第10回アジアカップのタイトル獲得に貢献した。ワールドカップ・アメリカ大会のアジア予選最終戦では、出場権をほぼ手中に収めながら、ロスタイムで同点とされ、出場権を逃すという「ドーハの悲劇」を経験。「日本をワールドカップに連れて行く」という自身の夢は果たせなかった。しかし、代表選手として戦う誇りと厳しさを世間に知らしめるとともに、まだアマチュア意識の残る日本サッカー界にプロの精神を伝えたことの功績は大きい。 |
講演テーマ | 「サッカーが教えてくれたラモス流人生学」 |
拝聴した感想 | |
著書 | |
メディア | |
講演料金の目安 | 100万円~150万円 ※講演料金はおおよその目安となりますので、詳細は直接お問い合わせください。 |